第7回 生物の進化とDNA |
サイトの表紙(本館) やさしい生物学Uトップページ 第1回細胞 第2回細胞分裂 第3回組織 第4回発生
|
生き残る個体はどの様にして決まるのだろうか。
生まれた個体が多いため限られた餌や空間などを巡って、競争が生じる。これを「生存競争」と呼ぶ。
この競争に生き残る個体は他の個体より有利な変異を持つ個体である可能性が高い。ここで言う有利な変異とはとはより環境に適応した変異と考えられる。
このような選択の過程全体を「自然選択」と呼ぶ。 「自然選択」が繰り返された結果、生物はより環境に適応した方向に変化する。これが「進化」である。
重要なことは「獲得形質」は遺伝しないということである。「獲得形質」とは遺伝ではなく環境の変化や教育によって生まれてから変化した形質である。
例えば、「日に焼けて皮膚の色が黒くなる」とか「英語を勉強してはなせるようになる」といったことである。いくら親が日焼けしても英語を勉強しても、日焼けした子が産まれるわけではないし、生まれつき英語が話せるわけでもない。
キリンは首を伸ばして餌をとっていたから首が長くなり、首が長くなった親の子だから首が長いのではない。 (これは獲得形質の遺伝を認めていることになる) 。
キリンの子にはやや首が長いものとやや首が短いものがいる。やや首が長いもののほうが生き残る確率が高かった。
そのため、次の代は首がやや長いものどうしの間に生まれる子が増える。このようなことが繰り返されてキリンの首は長くなったのである。
(1809〜1882 イギリス)
ビーグル号に乗り南米を探検、生物は進化することに気づく
ダーウィンは1831年にケンブリッジ大学神学部を卒業する。ダーウィンは大学での勉強について後に「完全な時間の浪費だった。」と述べている。
彼は神学ではなく植物学者のヘンズロー教授から自然について多くを学び博物学の勉強を勧められる。さらに、教授の推薦でビーグル号に乗り込めることになった。
彼は正式の調査員ではなく船長の個人的な助手として乗り込んだので無給だったが、かなりの自由が認められたことは幸運であった。
ダーウィンは地質学者のライエルの「地質学原理」を読み、「大地は常に変化している」事を知る。実際彼は、アンデスで4300mのところから海産の貝の化石の発見を知ったりもしている。
ダーウィンはガラパゴス諸島で島ごとにフィンチやゾウガメが少しずつ異なっていることを知る。しかし、この時点ではまだその重要性に気づいていなかったらしい。
1836年ダーウィンはイギリスに帰国し、「ビーグル号航海記」を出版する。
1838年ダーウィンはマルサスの「人口論」を読む。「人口論」には、人口は加速度的に増加するが食料は同じ率では増加しない。したがって人は食料を巡って争うことになる。と書かれていた。
これがダ−ウィンに決定的なヒントを与えたと考えられる。多くの生物は多産であるがそのうち育つものはわずかでしかない。生き残るものと死んでしまうものはどうやって決まるのだろうか。運だけで決まるのだろうか。
そうではない、生き残りやすい個体と死んでしまいやすい個体があるはずである。 そして、生まれてくる子の間には少しずつ変異がある。より環境にあった変異を持つ個体のほうが生き残りやすいはずである。
次の代では環境にあった変異を持つものどうしが交雑する。このようなことが代々繰り返され生物は次第に環境に合うように変化する。これが進化である
環境に合うものが生き残るという考えを「自然選択」と呼ぶ。ダーウィンは自然選択の証拠をこつこつと集め。1950年頃から、後に「種の起源」として出版される本を書き始める。しかし、執筆は遅々として進まず、このままでは完成はおぼつかなかったと思われる。
1857年1月ダーウィンはマレー半島で調査をしていた若き地質学者ウォーレスから衝撃的な手紙を受け取った。手紙にはダーウィンが考えていた自然選択による進化論がより明確に述べられていた。
ウォーレスは「ビーグル号航海記」を読み地質学者になった。彼は自分の考えついた新説について発表前にあこがれのダーウィンの意見を求めたのである。
4ヶ月後ダーウィンは返事を書いた。内容は、「ウォーレスの考えを評価しつつも不十分なところがあるからもっと研究し証拠を集めてから発表した方がよい。」といったものである。ウォーレスは自分の考えをダーウィンが認めてくれたことに感動し、ダーウィンからの返事は彼の宝物になった。
1858年7月ダーウィンはウォーレスとの共同発表という形で自然選択説を発表し、進化論の本を急いで書き上げ翌年1858年に「種の起源」として出版した。 ダーウィンの名は歴史に残りウォーレスは忘れ去られた。
最近、ウォーレスを正しく評価するべきであるとする意見が強まってきている。A Delicate Arrangement By Arnold C.Brackman 1980(日本語訳 ダーウィンに消された男 朝日選書1997)によると、ダーウィンとその友人達は「微妙な調整」を行いダーウィンの盗作の証拠を消し去ったとしている。
真偽は判らないが、ウォーレスがいなかったら「種の起源」は完成しなかった事は間違いないと思われる。
(1960年頃)
ダーウィンの進化論を集団遺伝学や分子遺伝学と結びつけた現在の定説である。
環境の変化や学習によって遺伝子は変化することがないことはDNAの構造や働きの解明から明らかになった。これは獲得形質は遺伝しないとするダーウィンの考えと一致する。
また、遺伝子の組み合わせが変わるだけでは大きな進化はあり得ないことも明らかである。
したがって、遺伝子に変化が生じるのは「突然変異」だけである。
DNAの塩基配列そのものが変化する遺伝子突然変異(DNAの複製時のミス、数億塩基に1回程度のミスは生じる。ヒトのDNAは約60億塩基対)と細胞分裂時(ほとんどは減数分裂時)に染色体の一部がちぎれたり正しく分かれなかったことによる染色体突然変異がある。
すべての変異はこのどちらかであり「有利でも不利でもない変異」はほとんど存在しない。
しかし、メンデルの法則で明らかなように遺伝子の組み合わせが変わるだけでは生物の進化は起こらない。(赤い花と白い花では赤い花が有利だとしても赤い花の比率が増えるだけで黄色い花は決して生じることはない)
有利な突然変異 は「自然選択」に生き残り、蓄積された結果として進化が起こる。
不利な突然変異は速やかに除去される。 有利な変異が生き残ることを「正の自然選択」、あるいは「ダーウィン淘汰」と呼ぶ。 遺伝子に生じる突然変異の中で有利な変異が蓄積され、(有利な変異は表現型にも現れるはずなので自然選択を受け生き残る)進化が起こる。
総合説はこのようにダーウィン自然選択を遺伝子のレベルに拡張して考える。
ダーウィンの進化論とメンデル遺伝学が発展した集団遺伝学と突然変異説が結びついて生まれた総合説は1960年代には定説となる。その大きな特徴は自然選択が遺伝子のレベルでも働くとする自然選択万能論である。
エルドレジとグールド(1972)
ダーウィンの自然選択では進化は代々少しずつ、つまり漸進的(ぜんしんてき)に起こることになる。別の言い方をすれば生物は常に少しずつ変化し続けていることになる。
しかし、正確な化石の年代決定を行ってみると生物の進化は急激に進み新種が誕生し、いったん誕生した新種は滅びるまでほとんど変化しないことが明らかになってきた。1960年代から化石になった生物が生きていた年代を正確に決定できる方法が開発されたことが、このことを明らかにした。
化石から見た生物の進化は漸進的ではなく断続的であると見るわけである。
彼らはダーウィン以来の進化観を、化石の記録と一致しない漸進的な見方として批判した。
木村資生(きむらもとお)(1968)
三島の国立遺伝学研究所の木村資生はタンパク質のアミノ酸配列の変化の数学的解析から、「突然変異のほとんどは中立的なもので自然選択の対象とならない。従って、自然選択によってタンパク質レベルの進化が起こることはない」とする考えを発表した。
この考えは激しい反発を生み容易に認められなかったが、現在ではほぼ定説とみなされている。
もともと木村資生は総合説を信奉する遺伝学者であった。彼は、タンパク質のアミノ酸配列に生じる変異を研究するうちに自然選択を万能と考える総合説に疑問を持つようになる。
異なる種に共通に存在するタンパク質のアミノ酸配列を比較するとタンパク質の機能と関係のない変異が多く存在する(たとえばヘモグロビン)。アミノ酸配列はDNAの塩基配列によって決まっているので、アミノ酸配列を調べることは遺伝子そのものの変異を調べているのに近いと考えられる。
この事実から木村資生は「これらのアミノ酸配列にみられる変異は自然選択に対して有利でも不利でもない」と考え、これを中立な変異と呼んだ。中立な変異は自然選択を受けない。
一方、不利な変異は自然選択によって速やかに除去され、有利な変異はほとんど存在しない。
中立な変異は集団内に偶然によって固定する(全ての個体が変異を持つようになる)か消滅する。 この固定と消滅の過程は想像するよりも素早く起こる。
たとえば10個体からなる集団において頻度0.5の遺伝子(対立遺伝子の中の1/2を占める)が偶然によって頻度が0(集団内から消滅する)または頻度が1(集団内のすべての個体がこの遺伝子を持つ、つまり固定)になるためには平均28世代しかかからないと計算される。
このような偶然による遺伝子頻度の変化を「遺伝的浮動」と呼ぶ。木村は「遺伝的浮動」による「中立な変異の蓄積」によって進化が起こると考えた。
その後、分子遺伝学の進歩により次のような事実が明らかになり中立説は定説になりつつある。
DNAの塩基配列を調べると、DNAのタンパク質をコードしている部分の変異は少ないがタンパク質をコードしていない部分の変異は大きい。
また、 「遺伝子重複」によって生じその後機能を失ってしまった「偽遺伝子」と元になっている「機能を持つ遺伝子」の変異を調べると、「偽遺伝子」の変異がずば抜けて多いことが明らかにされている。
これらの事実は中立説を支持する強力な証拠と考えられる。 なぜならば、総合説が主張するように有利な変異が「ダーウィン淘汰」によって蓄積されたとするならば機能を持っている遺伝子の方に変異が多いはずである。(機能している遺伝子には有利な変異が蓄積されているはずである)
実際にはその逆である。これは生じる変異が中立であるか不利であることを示している。 中立説ではこの先どの様なしくみで進化が起こるのかは述べられていない。
そのほかにも、同じ遺伝子が何回も重複する遺伝子重複と呼ばれる現象(大野 乾)やウイルスによる異種の生物間の遺伝子の移動など、遺伝子が変化する現象は突然変異以外にも存在する可能性が指摘されている。
ホメオティック遺伝子のように多くの遺伝子をコントロールしている遺伝子に突然変異が生じれば小さな変異でも大きな進化を引き起こすかもしれない。
これらの事実がどのように結びつき進化が起こるのかは今後の研究を待たねばならない。しかし、ある程度のシナリオを描くことはできる。
進化は外部から孤立した小さい集団で起こる。このような集団では突然変異などで生じる変異が遺伝的浮動によって蓄積しやすい。
進化は急速に起こり新種が誕生する。誕生した新種は滅びるまであまり変化しない。
孤立していた原因がなくなり古い種と新種が混ざり合ったときに競争が生じ(生態的地位が同じであれば共存は出来ない)どちらかが生き残る(中立説が正しいとするならば自然選択はここで働くことになる)。
競争の結果、古い種が生き残れば何もなかったことになる。新種が生き残れば古い種が新種に置き換わった、つまり進化が起こったことになる。
総合説に従えば、我々は少しずつ進化をしていて何十万年か後には新種になっていることになる。
断続平衡説や中立説に従えば、どこかの山奥や孤島などで孤立していたヒトの集団が「遺伝的浮動」により偶然新種のヒトに進化し、山から下りてきたかららによって我々は滅ぼされることになる。
最近の流れは自然選択よりも遺伝的浮動を重く考え、進化は必然ではなく偶然によって起こるとする考え方が強くなってきている。
ラマルク(1809年)
ラマルクは「動物哲学」の中で、初めて生物は進化することを説いた。しかし、環境からの影響に対する反応の結果として進化が起こるとする、獲得形質の遺伝を認める進化論であったためダーウィン以後の人たちから省みられることはなかった。
しかし、ラマルクが認められなかったのは獲得形質の遺伝をみとめたからではなく、進化そのものが当時の人々に受け入れられなかったためである。生物が進化するとする考えを初めて示した彼の功績は認められるべきである。
ラマルクは「生物学」という言葉を初めて使い、
「すべての科学はその哲学をもつべきであり、科学が真の進歩をなすのはこの道によるほかはない。植物学者が新種を記載するとしても、登録される種の厖大(ぼうだい)なリストを増すために、種の変異のすべての微妙な差や小さな特性をとらえるにしても、一言にしていえば、特徴づけるための考察をやすみなく変えてみて属をいろいろにこしらえてみても、それは彼らの時を空しく費やすことではなかろうか。もしもこの科学の哲学が軽視されるならば、その発達は空虚で、業績はすべて不完全にとどまるであろう」
と述べている。
彼の進化論は普及せず、視力を失い貧困の中で死ぬ。イギリスの国立自然誌博物館の銅像台座の裏には、彼の娘が盲目のラマルクを慰めているところと彼女の言葉が刻まれている。
「後の世代がほめて下さいますよ、恨みを晴らして下さいますよ、お父さん」。
(1885年)
生物の進化は一定の方向を持って進化する。アイマーや恐竜の化石の研究で知られたコープ達によって主張された。
マンモスの牙やオオツノシカの角はあきらかに生存に不利になっても大きくなる方向に進化し続けたと考えられる。
現在では性淘汰などによって説明できると考えられている。(例えば、角が大きくないと雌にもてないため遺伝子が残せない)
当日配布したテキストのPDFファイルです。ここをクリックするとダウンロードされます。
当日配布した人類の進化のテキスト「人類の誕生と進化」のPDFファイルです。ここをクリックするとダウンロードされます。